【失ったものの大きさ】
麻生太郎 2009年6月18日 フィリピン/グロリア・マカパガル・アロヨ大統領
(注:音声が出ません。ほんのかすかに聞こえる所もあるのですが)
「後生、畏るべし」を実感した
国際日本文化研究センター所長・猪木武徳
2011年1月13日
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110113/art11011302540012-n1.htm.
■「後生、畏るべし」を実感した
「いまどきの若い学生は本を読まない、自分の考えを持たない」という紋切り型の慨嘆をしばしば耳にする。しかし、学生と直(じか)に接すると、この嘆きにはあまり根拠がないなと感じる。
学生とくつろいで話をすると、古典とよばれる書物をしっかり読んでいる者、歴史上の意外な事実を知っている者、世界の珍しい地域を調べている者など、さまざまな若者がいることがわかる。
まさに、「後生、畏る可し、焉んぞ来者の今に如からざるを知らんや」と言いたくなる。
どうして来者(未来の人間)が現在の人間より劣るとわかるのか、と年寄りの傲慢(ごうまん)さを反省させられるのだ。
同世代の半数以上が高等教育機関に進学する時代に、昔のエリート旧制高校生と、マス化した現代の大学生の特質を比較するのは、あまり意味がない。
大学生は量的に膨張しただけでなく、多様化した。
「勉強しない大学生」も目立つが、賢者も多く生まれ出ていることを見逃してはならない。
最近、さらに若い高校生と東西の古典を読む機会があり、改めて「後世、畏る可し」の感を強くした。
◆古典深く読む向学心に驚き
日本アスペン研究所は、企業や政府で働く管理職を対象に、古典を素材として対話する、というセミナーを15年ばかり続けてきた。
3年前から、対象を高校生にまで広げ、モデレーターの助けを借りつつ(解説書ではなく)古典そのものを読み、参加者同士が対話するセミナーを始めた。
暮れの休みに、50人近くの高校生が3つのグループに分かれ、旧約聖書『創世記』の一部と、ルソーの『社会契約論』の4つの章を読んだ。
同じメンバーの2度目の会合である。筆者もその手伝いに参加した。
『創世記』も『社会契約論』も、もちろん一筋縄では読めない。
モデレーターも高校生も悪戦苦闘である。
しかし彼らの粘り強い向学心と、読みの深さに、驚くことが何度もあった。
テキストの論理だけでなく、対話の相手の考えを理解しようとする姿勢、臆(おく)せず自分の感じたこと、共感したことを率直に語る。
彼らには「独立自尊」の魂が出来上がっているのだ。
自分が高校2年生の時、こんな考えを持っていただろうか、と振り返ることしきりであった。
◆若者には難しいと思い込むな
教壇に立つものは、余計な親切心から、
「これは若い人には難しすぎるのではないか」
「こんな硬いことに関心を持たないだろう」
と勝手に想像して、「わかるもの、面白がるもの」ばかりを教材としてきたのではないか。
教室にある種の「デモクラシー」を持ち込み、一方的な思い込みで若者の人気を獲得しようとするふしがある。
プラトンが『国家』の中で、
「先生は生徒を恐れて御機嫌をとり、生徒は先生を軽蔑(けいべつ)し」
と皮肉った光景と重なりはしないか。
教育は単なる知識の伝達ではない。
先人の創(つく)り上げた文化的遺産としての学問に若い世代が問いを投げかけるとき、それを正面から受け止めるという仕事がある。
知力として重要なのは、教科に書けるような定型的な知識だけでなく、物事の軽重大小を分別し、軽小を後にして、重大を先にするような、非定型な判断にかかわるものであろう。
さらに、真理・厳密さ・論理そのものが問題になる「論証する」力も大事だが、「唯一の正解」がないような問いに対して、想像力や歴史意識で物事を「深読みする」力も不可欠である。
こうした非定型な事柄に対する判断力は、古典作品に触れることによって得られるものが多い。
その作品のなかで創造された人間像を読み取ることが、他者への理解を広げる。
それまで知りえなかった新しい人間像を、時を経て生き残った古典の中に発見するのだ。
◆人文学教育は独立自尊へ必須
一般に高等教育のカリキュラムは、教養教育か専門教育か、といった「あれかこれか」の形で論じられることが多い。
だが、「あれかこれか」ではない。
人間を研究する人文学があらゆる専門教育、職業教育の大前提であり、土台であるということは、強調してもしすぎることはなかろう。
独立自尊の精神で、ノン・ルーティンな状況への対応力を養うことこそ、人文学教育の意味であり目的なのだ。
時を経て生き残った古典と格闘する人文学は、社会生活における独立自尊の精神を養うために必須の学問分野なのである。
人文学を通して学び取られた精神は、われわれの地方自治への取り組みを成熟させ、勇気ある外交姿勢をも可能にする。
独立自尊の精神が希薄なこと、地方分権が未成熟であること、外交音痴であることは、すべて同じ遠因に発している。
向上心に富む高校生たちが、われわれ年寄り世代を追い越して、すでにこの精神を体得し始めていると感じる。
将来を託せる若者に出合うと、現状を悲観するのではなく、「後生、畏る可し」の前向きな姿勢の大切さを実感する。
強いて言えば、嘆くべき対象はわれわれ年長世代なのではなかろうか。(いのき たけのり)
うーん、これはひとこと言いたいな。私のことだから、三言になるか、四言になるかw
>同世代の半数以上が高等教育機関に進学する時代に、昔のエリート旧制高校生とマス化した現代の大学生の特質を比較するのはあまり意味がない
とか言いながら、ほんの少数の学生にしか焦点を当てていないような気がする。今や日本では、高卒後の進学率が、短大や専門学校を入れると70%くらいになる。それなのに、〔高校生〕とか〔大学生〕という一派ひとからげに言ってもいいものだろうか(笑)
〔高校生(大学生)の中にも、ごく一部ではあるが、 ~ な人がいる〕というのが正解なのだ。
50年くらい前はその反対よりもっと少なくて、高卒後に進学する人は若者の全体の20~25%くらいだった。その時代ならば〔高校生は〕〔大学生は〕でも良かったかも知れないが、それでも、あの時代の大学生は学園紛争に参加していた、なんて一派ひとからげに言われると、「ちげーよ!!」なんて反論したくなりますね(笑)25%の中の、そのまたごくごく一部の学生でしかなかったのですから。
そもそも、青春を謳歌しているべき年頃に、なんだとお?!創世記に社会契約論\(◎o◎)/!ロクな社会人になれないシロモノです。そんなヤツらが東大とか行って、やがて政治家だの官僚だのになって、ロクでもない日本を造ったんだって、誰かが書いてたじゃないですか(笑)たしか諸葛孔明だったかな?
私の観察では、現代人には〔教養〕が不足していますね。おはようから始まって、おやすみで終わる中の、ありとあらゆる知識です。おはようだけは完璧に出来て、どこそこの国のなんたらいう哲学者は、そのおはようの仕方も、右45度に構えて、なんてことはどうでもいいんです(笑)
明治の文豪の経歴をみると、さすがにミケランジェロだとか、ああいった時代の人には負けますが、それでも、理系から文系からいろんなものをまとめて身につけている人が多い。明治でなくても、手塚治などもマンガ家でありながら医者でした。そういった全体的な視野がないと、世の中に感動を与える作品は創れないと思うのですよね。
1つの研究なら、それだけの研究者に任せておけばいいことであって、創世記に対する深淵があっても、ザリガニを捕らせたら1匹も捕まえられないかも知れないじゃないですか(笑)
世の中を動かし得る人は、洞察の深い浅いはあったとしても、世の中全体を見渡せる教養こそが必要だと思いますけれど、その教養課程を削って就活なんてやってるのは日本だけだそうです。ますます落ちぶれていくだけの日本像が浮かびます。