北朝鮮ミサイル発射予告
金正恩氏「核を活用せよ」と側近に指示
2012年03月17日
http://sankei.jp.msn.com/world/news/120317/kor12031707580002-n1.htm
3月16日、金正日総書記の生誕70年を記念して
平壌で行われた軍事パレードを観閲する金正恩氏
4月に事実上の長距離弾道ミサイルの発射実験を行うと発表した、北朝鮮の新指導者、金正恩氏が側近らに、「核の積極活用」を指示していたことが分かった。
権力層に近い複数の関係者が明らかにしたもので、米朝合意の一方で、ミサイル発射実験を強行しようとする北朝鮮新体制の、内実をうかがわせる証言といえそうだ。
韓国当局は、金日成主席の生誕100年(4月15日)に合わせて、ミサイル発射などを行う「可能性が高い」と予測していたが、今後も、この種の恫喝(どうかつ)が続くとみて監視を強めている。
「金正恩大将は、
『(金正日)総書記の革命遺産である、核を、もっと活用しよう』
とおっしゃっている。われわれは核の活用にもっと積極的でなくてはならない」。
北朝鮮指導層に人脈を持つ消息筋によると、今年に入り複数の朝鮮労働党高級幹部がこう話したという。
朝鮮人民軍の内実に詳しい別の関係者は、正恩氏が
「われわれは核を持っている。食糧は南(韓国)に献上させろ」
と側近に指示したと、高級幹部から聞いたという。
関係者は現在の正恩政権について、外交部門に人材を集中させて、対米、対日、対韓交渉を進めようとするグループと、「核・ミサイル」を背景にした強硬政策で、対外的に優位に立とうとする勢力が、拮抗(きっこう)していると指摘した。
鍵を握るのは、正恩氏の最側近とされる、李英浩軍総参謀長だ。
李総参謀長は、2月の金総書記生誕70年の際に行った演説でも、金総書記の偉業は、北朝鮮を「核保有国」にしたことだと強く訴えた。
正恩氏の「核積極活用」発言は、李氏ら強硬派に同調した可能性があり、今回のミサイル発射発表にも影響したとみられる。
一方、正恩氏は、「食糧問題解決」を最優先に掲げており、米国からの支援獲得は逼迫(ひっぱく)した課題だ。
ミサイル発射凍結を盛り込んだ米朝合意は、強硬派とは別の外交推進グループが主導していた可能性が高い。
とすれば、米朝合意後にミサイル発射を予告する矛盾は、外交推進派と強硬派という、相反する2つのグループに支えられた正恩体制の、危うさを物語ってもいる。
米朝合意、直後、北ミサイル発射予告
正恩体制初の“勝負”
http://sankei.jp.msn.com/world/news/120317/kor12031700490000-n1.htm
2009年4月、北朝鮮がロケットと主張していた「銀河2号」の発射場面の映像。
朝鮮中央テレビが放映した。
日本政府は長距離弾道ミサイル「テポドン2号」かその改良型とみている。
事実上の長距離弾道ミサイル実験である、衛星打ち上げを16日に発表した北朝鮮は、1998年のテポドン1号発射以来、ミサイル・核実験を“武器”に、対米交渉を優位に進めてきた。
今回は、金日成主席生誕100年に合わせ、国力を誇示する国内向け「祝砲」の意味が強いが、米国と、ミサイル発射凍結で合意した直後であり、食糧支援を引き出せなくなるリスクもある。
北朝鮮は、金正恩体制初の、本格的勝負に出たといえる。
北朝鮮が、対米交渉中にミサイル実験に踏み切るのは、今に始まったことではない。
1998年8月に、中距離弾道ミサイル、テポドン1号を発射した際、米ニューヨークで、地下核施設疑惑について話し合う、米朝高官協議を行っていた。
その後、ミサイル発射を凍結する見返りに、米国は対北制裁の一部緩和を発表。“実弾”によって、米国から譲歩を引き出した。
2006年にも、米国が前年に、マカオの金融機関バンコ・デルタ・アジア(BDA)を、北朝鮮の資金洗浄先として、米金融機関との取引を禁じ、米朝関係が膠着(こうちゃく)していたが、ミサイル発射と、それに続く核実験で、米国を交渉の場に引き出した。
翌年の6カ国協議では、エネルギー支援を盛り込んだ共同文書が採択され、その後には、BDAへの制裁解除という戦果をもぎ取った。
一方、2009年4月の弾道ミサイル発射では、さしたる外交的成果を得ていない。
今回の最大のネックは、米国とミサイル発射凍結で合意した直後、という点だ。
北朝鮮は16日の発表で、
「平和的な科学技術衛星だ」
と強調しており、
「合意に違反しない」
と言い逃れはできる。
イランの核問題も抱える米国が、これで協議の席を蹴ることはないと踏んだ可能性がある。
ただ、米国からの食糧支援は、4月15日の金主席生誕100年に合わせ、国民に配給するという締め切りがあるため、これまでのような交渉引き延ばしは許されない。
かといって、祝典を飾る「衛星」発射の変更はもってのほかだ。
正恩体制は、最優先の「祝砲」打ち上げを引っ込めずに、1カ月以内に国際社会から食糧を獲得する、賭けに出たとみられる。
北朝鮮が
イランに戦車供与
軍事技術者派遣
中東・中南米など
31カ国に軍事要員を派遣
国内では
パレスチナ解放機構など
40カ国・地域のゲリラに
軍事訓練
韓国外交文書公開で判明
2012年03月18日
http://sankei.jp.msn.com/world/news/120318/kor12031819000002-n1.htm
韓国政府が18日に公開した外交文書のコピー
韓国政府は18日、1980年ごろから1981年までの外交文書を公開した。
文書から、1980年9月に始まったイラン・イラク戦争を機に、北朝鮮がイランに、戦車などの武器供与や、技術要員の派遣などを進め、軍事協力を深めた実態が明らかになった。
1980年10月3日、韓国の外務省(現外交通商省)で、盧信永外相は、グレイスティーン駐韓米大使と面談。
大使は、「イラン軍機とボーイング747などが、北朝鮮、イラン間を1日1回以上往来し、往来は既に24~25回になる」と発言した。
大使は、情報が「完全ではない」としながらも、「(航空機の往来が)北朝鮮がイラン向けに、弾薬を供給することを示唆している」と指摘。
これに対し盧外相は、「北朝鮮側は、小型火器や高射砲、携帯用対戦車ロケット砲、地雷、手榴弾(しゅりゅうだん)も供与可能だ」と応じている。
1981年12月の外務省宛て報告によると、1980年12月、北朝鮮船籍の船舶がイランに入港。積載貨物には、機関銃と対空砲などの兵器が含まれていた。
1981年7月には、北朝鮮が民間機を利用して、対戦車砲などの武器を輸送したとしている。
公開文書によると、
北朝鮮はまた、
イランを含むエジプト、リビア、中南米など、計31カ国に対し、
1981年8月までに約6千人の軍事要員を派遣する一方、
国内では、
パレスチナ解放機構(PLO)など計40カ国・地域のゲリラ約6100人に、
軍事訓練を施していた。
1979年には、リビアに空軍パイロットら約280人を派遣、
1981年には、ジンバブエに軍事顧問団を派遣し、
政府軍を訓練した。
文書は、
北朝鮮が各国への武器支援で兵器の生産能力を高め、
軍事交流では
派遣したパイロットが自国にない新鋭機を操縦するなど、
技量向上の機会としてきたと分析している。
なるほどね。私は日本赤軍などが、独自の計画で北朝鮮だけでなく、パレスチナなどにも行ったのだと、ずっと思っていたのに、な~んだ、結局はソ連の駒にされてただけかあ・・・と、かなり、ガッカリしました(-_-)/~~~ピシー!ピシー!
えっ、ソ連なんて何処にも出てきてないって?!
まさか、プーチンさんと、亡くなったカダフィさんと、ベネズエラのチャベスさんと、キューバのカストロさんと・・・なんてのが、まんなとっても仲良しなのを、知らないワケじゃないですよね?
だから口蹄疫の時に、私が騒いだじゃないですか。日本の存亡問題の時に、粗松は南米の共産圏回りですか!!と。そしてその粗松が日本に帰って来て、イの一番に向かった先は、宮崎県なんかじゃなく、栃木にいた小沢一郎の所だったのを、私はシツコク忘れないからね!!
今回も、ルーピーがイランに行く前に、中国に行って、習さんに小沢さんのお手紙を渡してるじゃないですか。
ルーピーが首相時代は、韓国の中国寄りのウリ党とのお手紙のやりとりを、韓流スターにやらせてたので、私が、伝書バトは自分でやれー!!とブログに書いたから、自分でやったのかも?
2012年03月17日