とかく武士道とか維新とか好きな人たちというのが多いみたいですけど、武士道と維新は相反するものであって、武士を廃止したのが維新なんですけどねwww
ちなみに江戸時代でいえば、武士と神官と僧侶など、合わせて約7%。あとの93%は一般庶民だったのですから、そんな、わずか7%の道を騒いでも意味がないように、私は思います(^^;)。
でもまあ、近代はその97%のほとんどが、哀しきものは宮仕えのサラリーマンなので、武士道の中の、バカになって勤めろよ~・・・というものでは参考になるかも知れません\(◎o◎)/!
それと、明治維新というのは、金持ちの大名から出資金を募って(株式ですね)商社を興した坂本竜馬に代表されるように、資本主義への第一歩ですから、これも資本主義が行き過ぎて人間の素朴さを忘れた現代において、反面教師にはなっても、諸手を挙げて騒ぐようなものではないと私は思いますwww
ましてやあれは、ヨーロッパ各国の大航海時代の煽りで、ロシアやイギリスなどなどの船が日本の周りをウロチョロすることから始まった騒動ですから・・・あら、今は別なものがウロチョロしてますねえ(^_^;)で、日本自らが資本主義を要望して改革が始まったワケではありません。
広告でもキャッチコピーというものが重要で、中身なんてどうでもいいのが売れたりしますけど、飴が落ちてたからといって200mも並んだりしないように気をつけたいものですって、何を話そうとしてたか忘れたわ(>_<)
武士道ですね。葉隠に煙仲間ですw
私が住む村にも立派な公民館だの、各地区のコミュニティ館だのがありますが、そこを使用するには少なくとも1カ月前くらいに申し込んでおくといったシステムで、定期的に決まった日時に集まれるようなヒマ人、いえ、失礼(w)、そんな高尚な人たちというのは、この村では数少ないと思うのです。
いきおい、公民館もコミュニティ館も、フラダンスだとや子育て教室とかが使用しない時は真っ暗になっていて、社会を担っている重要な若者たちは、遊び場を求めて隣町などに繰り出す。あるいは家の中でゲームをしていたり、なんとなくゴロゴロして大切な休日を過ごしてしまう。
現代は人の移動が多いですから、私の村も、人口の88%は、他県から移動して来た人たちで、その時期もマチマチですから、買い物などに出掛けても、都会の雑踏の中と同じで知った人に会うことは稀です。
日常でも、私が住む分譲団地には40数軒が建っているのですが、本当に向こう三軒両隣くらいしか挨拶もしないので、それ以外の人たちは顔もよく分からないし、名簿が配られてはいても、暗記力ゼロの私には苗字も覚えられません(^^;)。
人口わずか6千人だった時代には、別の部落の家や人も知っていた昔が、ふと、懐かしく感じることもあって、現代社会は根なし草のような思いがします。
各家庭に目を向けると、子供が二人か、せいぜい三人。両親は共稼ぎの核家族。休日などもバラバラの所為か、特に親類などと行き来をしている様子も見えない。銀行はATM。スーパーも何もかも大店舗で、「いらっしゃいませ」と「ありがとうございました」しか言わないw
そんな社会で暮らす人々。
時に道端でお喋りしているママさんたちなども見かけますが、話題は当たり障りのないどうでもいいことだと思うし、特に人生勉強だとか人との付き合い方だとかを学ぶ必要もなく、死ぬまで生きていられる。
それでいいのだろうと思う気持ちと、いや、人間はもっと群れてもいいのではないかという気持ちが交叉する日々です。
公民館は四六時中、開放すべきです。気のいいお年寄りを留守番に住んでもらって。そして事故その他は自己責任。そこに集まるようになった若者たちの間から、郷土意識が生まれれば、根なし草ではなくなります。
そんなことをやってる町も、どこかにあったなあ・・・
青年団というのは、もっと素朴でいいと思います。どうでもいい世間話から始まって、世の中にはいろんな人がいて、挨拶が重要だということが分かって、靴を揃えてあがるとか、そんな些細なことから、人間関係や職場の愚痴、性教育から恋愛問題、結婚のこととか子供のこととか、親戚づきあいとか慶弔のこととか、死ぬまで人間らしく生きて行くために必要な学びを、そこで身につけられればいいなと思います。
昨日の新聞広告に、今年で100歳の、なんたらいうお医者さんの本の紹介が載っていました。目標をもっと低くすれば、もっと幸せになれる。そんなような内容だったと思います。
絆というのは、自分たちが集まって楽しみながら募金を募って、それを東北に送金するだけなのに、大々的に〔日本を元気に!!復興支援!!〕なんてものを掲げることではないと思います。
なんだか、あれを思い出します。
林秀彦
「血涙とともに。だから私は日本人を信用しない」より
http://hawkmoon269.blog.so-net.ne.jp/archive/c2301965582-1
この小さな九州の町の役場には、でかでかと「平和宣言の町」という立て札が立っている。
一体その宣言とは、どんな意味と効力を持つのか。
誰が誰に向かって宣言しているのか。
豊後牛のオナラのほうがずっと効果がある。
臭いだけでもましである。
テポドンがこの看板に命中する様子が眼に浮かぶ。
だが誰もこの看板を不思議に思わない。
馬鹿げているから仕舞えとも言わない。
なぜならこの看板の文句はズレていないからである。
なんでも宣言すればそれが実際になるのなら、地球ほど住みよい惑星もない。
実体と行動力を伴わない平和宣言など、臆病者の念仏に過ぎない。
などと発言することは、許しがたい巨大なズレになる。
そもそも〔絆〕というのは、馬の脚にしばって、馬を自由に歩けなくしたヒモのことで、転じて、義理・人情にしばられて自由に身動きが取れないことを言うのだそうです\(◎o◎)/!
義理・人情というものは、直接、手や心の温もりが触れ合って生まれるものであって、見ず知らずのものが銀行を通して送金して生まれるものではありません。10年以上も前から〔絆〕を標榜されていたという谷垣自民党総裁は、お年寄りが数人しかいないような僻地まで隅々回って、対話集会を開いてこられました。そういった、肌のぬくもりがあって、初めて生まれるものが、人情だと私は思います。
それと同じで、横断幕だけコミュニティだの触れ合いだの掲げても、やっていることは、なんらお互い同士の心の触れ合いも手の温もりも無いクラシックコンサートだの演劇鑑賞だの、リーダー養成だの、そんなものではなく、今、この場所に生きている者同士が、この場所のことを、あるいは自分自身のことを、気軽に、時には真剣に、酒でも飲みながら語り合い、歌のひとつも出るような場所が、現代人にも、必要なような気がします。
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(1381) Billboard 200 に、そろそろ戻りましょうの前に青年団 (^_^;)
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